Bateau-Lavoir

対談連載「バトー・ラヴォワール」

Vol.4 荒井理恵さん〈前編〉

KATSUMATA JAPAN officeの勝又美孝が気になるゲストをお呼びして、お仕事の話をうかがいながら生き方について学ぶ連載企画。第4回はインテリアデザイナーからジュエリーデザイナーへと転身し、現在は真珠を扱うジュエリーブランドのMANORIE Peal Jewelryを手がける荒井理恵さん。センスあふれるショップにて、インテリアとパールジュエリーへの熱い想いから、華麗なる転身の裏側、日々の支えとなっているものにまで迫りました。

「勉強としてジュエリー関係の仕事をしていたら、 ブランドを立ち上げることはたぶんできなかった」

「勉強としてジュエリー関係の仕事をしていたら、ブランドを立ち上げることはたぶんできなかった」

キャリアのスタートはデザイン事務所の模型作り

勝又美孝(以下K 出会いは最近です。ラピスアカデミーというカラー診断のスクールで、講義の初日にたまたま席が隣になりまして。自己紹介で定年退職したことを話したら、すごくいいリアクションをしてくれた女子がいて、それが彼女でした。

荒井理恵(以下A) はい(笑)。

K そのあとランチでお話をうかがうとジュエリーのブランドをやっているだとか、もともとはインテリア関係だとか、若くしていろいろと経験のある方で、これはぜひくわしいお話を聞きたいなと。それでこの取材が実現しました。

A 最初に会ったのが1カ月くらい前のことで、顔を合わせるのもまだ4回目くらいですよね。私は私で勝又さんのお話をうかがいたいと思っていたんです。

K インテリアのお仕事をされていたとのことですが、きっかけはどういうものだったんですか。

A インテリアの仕事をしたいと思うようになったのは中学生の頃です。姉が進路を考えるタイミングで自分も何になりたいかと考えたとき、初めは建築家かなって思ったんですけど、そこからインテリアデザイナーという職業があることを知って興味を持ちました。もともと絵を描いたりするのは好きでしたね。

K なるほど。

A そのあと専門学校のデザイン学科に行き、スペインにインテリアの交換留学で行き、小さなデザイン事務所で模型作りのバイトから始めました。

K 身近な人に影響を受けたりもしたんですか。

A 父は物作りが得意で、家具を手作りしていました。自宅の隣にログハウスみたいなものを建てて、そこに電ノコとか工具を並べたり。キットでカヌーを作って、それで川下りをしたり。そういう父の影響はあると思います。

K どれも男の夢って感じですね。

A それと、母が愛媛の宇和島市の出身なんですけど、日本でいちばん真珠が生産されている町で。母は真珠をいっぱい持っていて、私もいいなとは思うものの、どうしてもおばさんくさいイメージが強くて。いまみたいに若い子が着ける感じではなかったんです。

K 少し前まではそういうイメージでしたよね。

A 皇室におめでたいことがあると真珠が流行ると言われているんですが、愛子様が生まれたときにテレビでそんなことを聞いても、信じられなかったくらいで。でも、その年からプラスチックパールが並ぶようになったのは覚えています。

K そうだったんですね。

A そこから少しずつ若い人も着けるようになっていったかと思います。松山空港にも真珠屋さんがあってお土産屋さんみたいなところに真珠が並んでるんですけど、青い毛の生えたケースに入った50年くらい前のデザインのものがずっと売られていて。

K 昔のプロポーズで出てくるような(笑)。

A そうそう、パカッてやつ。「本真珠」って書かれた金色のシールが貼ってあって。真珠自体はいいのにすごくダサくて、インテリアの仕事をしているときはもったいない業界だなって思っていたんですけど。

K そのあとそこに飛び込んでいくことになると。

インテリア業界での普通では体験できない日々

A 20代の後半くらいに仕事のしすぎで体をこわしまして。これじゃだめだと思い、アパレルのインテリア部門に転職したんです。そのときは特にやりたいこともなく、外資で給料もよく、持っているスキルが生かせるところって。

K 某ハイブランドですよね。

A ファッションの第一線で、世間とは違う常識がまかり通っている世界でした。期間限定のポップアップの小さなスペースのためだけに絨毯を織ったり。日本にある既製品の絨毯じゃ毛の長さが足りないと。長さが何ミリって決まっているんです。

K わざわざそのために?

A しかも白なので、洗っても23回しか使わない。いままで私はその絨毯の予算で居酒屋とか作ってきたのに(笑)。

K すごい話。

A 普通では体験できないこともいっぱいあって楽しかったんですが、少ししたら物作りしたい気持ちが強くなって。会社の中にひとり真珠のジュエリーをしている人がいて、それを見て自分でも着けたくなったんです。ちょうど結婚するタイミングだったのでジュエリーを探していたんですが、真珠も見てはみるもののめちゃくちゃ高いし、MIKIMOTOさんとかTASAKIさんの次に見るべきものがない感じで。

K 確かにそうかも。

A で、いいものがないなら自分でデザインしちゃおうと。インテリアの仕事をしてきていろいろな家具をデザインしたし、シャンデリアやドアノブなんかはジュエリーに近いですし。それに、母親の地元で真珠のコネクションもあるだろうからと。それでブランドを始めることにしました。

K インテリアの仕事はキッパリと辞めて?

A 最初は辞めないでおこうとも思いましたが、結局辞めました。

K 未練はなかったんですか。

A 全然ですね。でも、好きだからいまでも頼まれたものを受けたりはしています。青山の住宅とか赤坂のバーとか。仕事ではなく趣味だから楽しんでやれるので。

K バーは興味ある。

A ウォーターシェッドというバーなんですけど、ちゃんとしたものができてそれはうれしかったですね。

K 気になります。コロナさえなければすぐ行くのに。

A いまはワクチン摂取会場の図面を書いたりもしていますよ。ジュエリーデザイナーでそんな図面を書いているのは世界で私だけじゃないかと(笑)。

K おもしろい。ちなみに、お酒は好きですか。

A 好きですね。お酒を飲むために働いていたような時期もありました。独身時代は狩人でしたから(笑)。飲みの場で知らないお姉さんとかと話すのもすごく好きです。

K 自分と近いものを感じます(笑)。

A 旦那ともバーをきっかけに出会いました。厳密に言うと出会いはTwitterですが。

K へえ、そうなんだ。いまどき。Instagramはひと通り見させてもらってますが、クオリティがすごく高い。

A 全部iPhoneで撮っています。プロのカメラマンにはお願いしたことがなくて。

K 写真を見るだけでもセンスのよさが伝わってきます。ホームページの文章なんかもちゃんとしてるけど、あれも自分で?

A そうですね。外注しているところはないです。

何も知らないからこそ挑戦できた異業種への転身

K 少し話を戻しますが、インテリアの世界での経験やコネクションがあったとはいえ、いきなりの転身は大変だったんじゃないですか。

A いま思うとブランドを始めるまでのコネクションはなかったです(笑)。何も知らなかったからこそできましたね。もしブランドを立ち上げる前に勉強としてジュエリー関係の仕事をしていたら、たぶんできなかったかと。

K 仕組みとかいろいろあるだろうし。

A だから、始めたころは散々な感じでした。2年半くらいは。

K 例えば、どういうこと?

A 強度のことがわかっていないのに、海外にバングルを発注してしまって、できてみたらフニャフニャだったり。しかも、サンプルをひとつお願いしたつもりがたくさんできてきて、全部無駄にしたりもしましたね。

K そんなことが。

A ジュエリーを作るための段取りを知らないので、最初はインテリアの仕事をしていたときより働いていましたね。徹夜とかが嫌で辞めたのに。それでいて超赤字。旦那に借金をしてしのいでいました。ユニクロの服さえ好きに買えないくらいの状態でしたから。

K それが数年前のことですよね。

A はい。ブランドを始めていま6年目です。旦那に返済できたのも最近のことで、そこからはある程度自由になりました。まあ、そこまで厳しい人ではないから、実際はちょいちょい服を買ったり、飲みに行ったりしていましたけど(笑)。

K でも、その2年でいろいろと学んだんですね。つらくても辞めようと思うことはなかったんですか。

A それはなかったです。借金は旦那からだけで、いつ辞めてもいいようにはしておいてねとは言われていましたが。だから、シルバーのものをゴールドに変えたりして。金なら時価は上がっていくし、辞めても売れるので。まあ、ジュエリーひとつの原価だけで数十万円かかりますし、それはそれでまた大変で完全に自転車操業ですね。お金がないので先に作っておくことができず、ポップアップの売り上げで次のポップアップで売るものを間に合わせるような。

K その連続と。

A いまもそんなには変わらないですけどね。ちょっと緩やかになっただけで(笑)。
(後編に続く)

ブランドの現在やパールへの偏愛についてお話をうかがった後編は9月20日公開予定!

荒井理恵(あらいりえ) 
スペインのグラナダ大学芸術学科留学したのち東京にてインテリアデザインの仕事に従事。真珠の魅力を広めたいという思いからPEARL PARTYを設立し、2018年にMANORIE Pearl Jewelry に名称を変更。現在も店舗などの設計を手がける。

勝又美孝(かつまたみたか) 
1998
年、SOPH.の立ち上げメンバーとして広報に就任。スタイリストへのリースやメデイア対応、販促物制作を通してブランドイメージの確立に寄与した。2020年にマネージメントやPRを業務とするKATSUMATA JAPAN officeを設立。

Photography  KENTARO MATSUMOTO
Text  YUSUKE MATSUYAMA