KATSUMATA JAPAN officeの勝又美孝が親交の深いクリエイターをゲストに迎え、クリエイションをテーマに対談を行う連載。その記念すべき船出となる今回は、勝又たっての希望により日本のメンズスタイリストのパイオニアであり、自らのブランドであるThe Stylist Japan®︎を手がける大久保篤志さんが登場。今年で40周年となるスタイリストの活動と洋服作り、はたまたプライベートについて、これまでとこれからのお話をうかがいました。
「大スターだったトシちゃんの撮影のときは、追ってくるファンをマイクロバスで巻いてたよ(笑)」
「大スターだったトシちゃんの撮影のときは、追ってくるファンをマイクロバスで巻いてたよ(笑)」
後にも先にもないふたりの記憶に残る特集
勝又(以下K) 昨年の11月17日に会社、KATSUMATA JAPAN officeを立ち上げまして。
大久保(以下O)KATSUMATA JAPANってすごいね(笑)。
K 大久保さんのThe Stylist Japan®︎とはジャパンつながりです(笑)。
O 確かにそうなるね(笑)。
K 私がSOPH.でプレスをしていたとき、おそらくいちばんリースでお世話になったスタイリストが大久保さんです。
O 本当? まあ、でも、千駄ヶ谷の事務所のときからまあまあ長い付き合いだしね。
K ずっとコンスタントに来ていただいていたので。木梨(憲武)さんの衣装のリースが多かったと思います。
O 『とんねるずのみなさんのおかげでした』とかレギュラーの番組も結構あったし。
K 大久保さんとのお仕事で印象に残っているものがいくつかあるんですけど、ひとつは雑誌『an・an』の木村(拓哉)さん。uniform experimentの星柄のレーヨンシャツをご使用いただいて、その反響がものすごかった。
O うんうん、あったね。
K もうひとつは雑誌『smart MAX』でたくさんの方をキャスティングに起用した特集。宇野薫さん、(パンツェッタ・)ジローラモさん、visvimの中村ヒロキさん、スタイリストの宮島尊弘さんといった人たちに出てもらったんです。
O いま考えてもすごいメンツ。
K でも、それがトラブルで再撮になってしまったという。
O あんなことは後にも先にもないね。全員にお願いしての再撮。忘れられない思い出のひとつだよ(笑)。
K なんせそのラインナップですから。
O よく2回も集められたよね。
K あとは雑誌『WORLD SOCCER GRAPHIC』と作ったブランドのムックですね。そのときどうしても木梨さんにモデルとしてご出演いただきたくて、大久保さんを通してお願いしてもらったんです。
O 出てもらえたんだっけ?
K おかげさまで出てもらえました。スタイリストは大久保さんに師事されていた馬場(圭介)さんでした。
O 馬場のスタイリングだったか。全然覚えてないな(笑)。
K 私にとっては忘れられない仕事ですね。だから、大久保さんにはリースはもちろん、それ以外でも要所要所でお世話になっています。
『POPEYE』で見つけた自分の進むべき道
K 大久保さんがスタイリストになるきっかけってどういうものだったんですか?
O 東京に出てきたのが1975年、20歳のとき。すぐに竹下通りのカジュアルウェアショップでバイトを始めて。
K その頃にはもう洋服がお好きだったんですね。
O 文化服装学院に入学するための上京だったけど、札幌の友達が働いていたお店に羽田から直行して、次の日には自分もバイトしてた(笑)。そのあと大手のアパレルに入社したけど、あまりおもしろくなくて。ちょうどその頃に雑誌『POPEYE』が創刊されたんだよ。
K そんな時代ですね。
O 当時のファッションディレクター、北村勝彦さんのページがかっこよくてこれはヤバいと。お店の近くの喫茶店に北村さんが来ていた縁もあってご本人と知り合い、素人モデルとして誌面に出させてもらったりして現場や編集部へ行くうち、自分の進むべき道はここかなって。それで迷わず会社を辞めて、北村さんや『POPEYE』の手伝いをするようになった。
K なるほど。そういう流れだったんですね。
O 『POPEYE』に1年半いたあと『anan』に拾ってもらって、それが1980年くらい。そこからはもういまと何も変わらない生活。
K すごい話。
O 今年で40年。
K 日本のスタイリストのパイオニアですよね。当時はまだメンズのお仕事もあまりなかったんじゃないですか。
O そうそう。メンズブランドのプレスルームはまだそんなになくて、お店から借りてた。商品だから返却するときも大変。シャツなんかきちんと折ってピンを打って、元の状態に戻さないといけないから。
K それは大変な作業ですね。
O でも、その頃にはわりと好きなことができるようになっていたから楽しかったね。表紙なんかもやらせてもらって。
O 雑誌以外ではY’s for menのカタログの仕事も印象に残ってる。4シーズンくらいだけど、パリからJean-Paul GAULTIERのミューズ的存在だったモデルの男の子を呼んだり、ロスで撮影したときはブルース・ウェーバーのスタイリストだったジョー・マッケンナをモデルに起用したり、篠山紀信の宮沢りえより早くサンタフェに行って撮影したり(笑)。
K (笑)。
O 日本では40~50人くらいのモデルを集めて撮ったこともあった。府中の野原に雛壇を作って撮る話だったんだけど、前の日が雨で使えなくなっちゃって、カメラマンの森川(昇)さんの機転で草むらを歩かせたんだよ。それがすごくよかった。モデルにはいまモデル事務所をやってるピーター・ライアンや、当時Yohji(Yamamoto)にいて、そのあとCoSTUME NATIONALを始めたデザイナーのエンニョ・カパサなんかも交ざってる。
K それはまたファッション界にとって重要な仕事ですね。
O そのときのY’s for menのカタログはどれも写真の質感、モデルの立ち方、着こなし、いま見てもかっこいいよ。堀口(和貢)がアシスタントだった頃だね。
K 堀口さんをはじめ、野口(強)さんと馬場さんも大久保さんについていらっしゃったんですから、それも改めてすごいです。
O 馬場とはロンドンでの撮影で知り合ったんだよね。CURIOSITY KILLED THE CATってバンドが出演したマクセルのカセットテープのCM。初めてロンドンに行くからってTUBEの斎藤(久夫)さんに手伝いができる人を紹介してもらったら、馬場っていうのがいるって(笑)。日本から持ってきた洋服を見て「ギャルソンだ」って喜んでた。COMME des GARÇONSは当時から向こうのミュージシャンなんかにも受けてたね。
K 馬場さんのいいお話を聞けました(笑)。
ミュージシャンや俳優との強烈な撮影の思い出
K ミュージシャンや俳優の方とも多くお仕事されていますよね。
O 『anan』のあとに広告や音楽の仕事もしたくなったんだよ。ダイアモンドヘッズの横山修一さんに声をかけてもらって広告の仕事をやり、それから音楽の仕事もやるようになって。桑田(佳祐)さんが結成したKUWATA BANDの『NIPPON NO ROCK BAND』や渡辺香津美さんの『MOBO倶楽部』、あとは坂本龍一さんの『音楽図鑑』とか。
K これまたすごいメンツ。
O 舘ひろしさんと郷ひろみさん、トシちゃん(田原俊彦)もやってた。とんがりコーンのCMにYohjiの緑のスーツで出てもらったね。その頃のジャニーズの人って本当に時間がないから、CMも1時間くらいで撮影して。いまじゃ考えられないけど。そのときもうトシちゃんは大スターで、撮影のときは追ってくるファンをマイクロバスで巻いてたよ。ダミーの車が出て行くと、ファンが乗ったタクシーとかがバンバンついていくという(笑)。
K いまとはまたスケールが違いますね(笑)。
O とんがりコーンのCMでLAに行ったときは、ARMANIに何千ドルかのピン札の束を持っていって、私服のコーディネートをしたこともあったな。トシちゃんの格好がスポーツウェアの上下だったから、ちゃんとしなきゃダメってオレが誘ったんだよ。
K トシちゃんも大久保さんもさすがですね(笑)。いまもお会いしたりするんですか?
O 仕事はしてないけど、たまにテレビ局とかですれ違うことはあるかな。お互いに「あー」って感じで挨拶して(笑)。
K ここ数年だとテリー伊藤さんや市川海老蔵さんの印象も強いです。テリーさんみたいに洋服が好きでこだわりが深い人は、大久保さんじゃなきゃ務まらなそう。
O 最終的な形に落ち着くまでは確かに大変だったかもしれない(笑)。
K レギュラーで朝の番組にも出ていらっしゃいましたし。
O 月~木の週4日で担当してたからね。
K 当時は側から見ても大変そうでした。
O 終わっちゃえば楽しいことしか残らないけど、やっているときは楽な現場なんて一切ないんだよね。いまもどこの現場だって緊張するし、無事に終わるまでは神様に祈ってる。毎回お願いしますって感じ。特にテレビやレセプションなんかは直せないし、最後まで気が休まらない。カフスやソックスの見え方とかね。